KA.Blog

株式市場で気になる銘柄をピックアップして分析、検証していきます。主に中期~長期の投資で成果を上げ、値動きを追っていく予定です。株の他にも日常の話題やコーナーで綴っていき、むさくるしくない(?)ブログにしていきたいと思っています。

さぁ、みんなで考えよう!

赤ちゃんポストの設置を熊本市が認可という話題に賛否両論の意見が相次いでいます。それぞれの国にはそれぞれの倫理観や事情があるため、外国でその話題が出ていた頃は「難しい話やなー」と思っていたのですが、遂に日本でも認可となったので対岸の火事とは言えない話になってきました。

赤ちゃんポストとは欧州で出来上がったシステムで、子供を産んでみたものの経済的な理由等から育児が困難な親のために匿名で子供を医療機関に預けるというシステムです。ざっくばらんに言ってしまえば捨て子を公然と認めたものであり、世界的に是非が議論されています。

個人的にはやっぱり反対ですね。これを設置することによって一種の罪悪感が消えてしまう部分に怖さがあります。普通の倫理観で語るのであれば「親は産んだ責任をしっかりとらなければならない。取れないなら産むな」という感じでしょうか。そして「ポスト」ってネーミングもやっぱりイメージが悪いですよね。かといって他の名称なんてなかなか出て来ないでしょうが。

今回の熊本市の決定に対して、安倍総理を始めとする政府閣僚からの反対意見も相次いでいるようです。法律的には問題ないと判断されているようですが、刑法の「保護責任者遺棄罪」に該当するのではないかという部分も議論されているようで、簡単に決着がつくような話ではないようです。

一方でその有効性は現実的には認めざるを得ないのかも知れません。どういった経緯であれ、せっかくこの世に生を受けた赤ちゃんを餓死させたり、愛のない教育を受けさせる位であれば、いっそ子供の欲しい引き取り手の養子として育った方が幸せではないのかと。また、金銭的な理由で親が犯罪に走ったり、またそのような立場の親に一種の「逃げ場」を作ることによって冷静に育児について考える機会を作るという意味では正解なのかも知れません。

それでもやっぱり個人的には反対ですね。親に見放された(少なくとも子供はそう感じるでしょう)子供は、または見放しても良いと考えられた子供はやっぱり不幸なのです。動物の世界には自分の子供を別の親に育てさせる動物もいますが、ほとんどの生き物の親子関係は赤ちゃんポストで救われるようにはできていないと思います。

かなり支離滅裂な意見かも知れませんが、私は赤ちゃんポストが容認されるのであれば、この場所であれば自殺しても良いよという制度すら容認しなければいけないのではないかと思います。それぐらい倫理観や道徳観に欠けた話だと思っています。どちらも私は「NO」という意見ですが、皆さんはいかがでしょうか?

ただいずれにせよ世の中色々なものに正義と悪のレッテルが付いていきますが、どんなにわかりきった議論と思っても、もう一度頭の中で色々なケースを想定して、思考停止してしまわずに議論を尽くす事が大切だと思います。今回の話だって社会的にそういう子育てができない環境になりつつあるという現実の裏返しでもあるわけで、その部分を無視して「赤ちゃんポストはダメ!」とだけ言うのでは、別の捨て子容認の代替案が出てくるだけです。それにしても何だか暗いニュースですね。

さて、今日は日曜なので小説の日です。前回までの分は毎週日曜のブログを参照してください。前回までの分が読み辛い場合や余りにも長過ぎて過去の話を忘れてしまった場合は下記のまぐまぐバックナンバーの方でも本文のみ公開していますのでご確認ください(リンク先の画面上部「前のページ」で過去の作品に遡れます)。ちなみに来週はいよいよ最終回です。かれこれ10ヶ月近くも続いてしまいましたね。長かった・・・

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                         正義のみかた

※この作品はフィクションであり、実在する、人物・施設・団体とは一切関係ありません。

三十二章 漂白された思い

被告人の最終陳述となり敦君が再び係官の誘導のもと、証言台に上がった。いよいよ裁判も大詰めを迎える。当然と言えば当然だが敦君の表情から終始緊張の文字は消えることがなかった。
「これで審理を終わりますが、被告人は最後に何か言っておきたいことはありますか」
裁判長が尋ねた。敦君は一つ頷くと言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「子供の頃、一緒に風呂に入った時に母のお腹を見たことがあります。自分が産まれた際の帝王切開の跡だと聞きました。既に随分と薄くはなっていましたが、それでも傷跡は残ってて・・・自分が産まれるために母を傷つけたという事が子供の頃の自分にとって大きなショックでした。そして母を傷つけてまで生まれたのに、今はそれよりも大きな傷を与える事になってしまった・・・・」
法廷内の誰しもが固唾を飲んで見守った。その中で発言に最も興味深く傾聴しているのは恐らく私だったであろう。先日私が見せたビデオは何らかの形を表しつつあった。

「子供の頃、自分は母親に殴られ、蹴られても抵抗できなかったんです。それは自分に抵抗できるだけの力がなかったことと、母親に対して罪悪感があったからです。そして抵抗できないまま母親は自分の前から姿を消した」
自身が虐待を受けていたということは心の深い傷だ。それを公の場で話すためらいはどれ程のものか。敦君の決意の表れが見てとれた。

「やがて体だけは大きくなり、力だけは人の命を奪ってしまう位に強くなってしまった。そして今、あの頃虐待を受けた記憶が蘇って、必死に母親に抵抗していたあの頃と同じような感覚で力を込めてしまったのです。若葉さん本当にすみません。若葉さんには何の関係もなかったのに」
今まで語ることのなかった敦君の胸中だった。その思いは静寂に包まれた法廷内に染み込んでいくように感じられた。

敦君の犯行当時の心境がわかるのは敦君しかいない。私は心理学に詳しくはないので、専門的に分析することはできないが、つまりはこういうことだろうか。

子供の頃は母親の虐待から抵抗も逃れる事もできなかった敦君だったが、ある日突然母親が目の前から消えた。敦君にしてみれば理解できるはずがなかった。「何故母さんはいなくなったのか?」「辛い思いをしてまで産んだはずの自分を何故こんなにも憎んで、そして見捨てて行ったのか?」様々な感情が敦君の中で抑圧され、撹拌され、結びついて、母親に似た若葉幸恵さんを見かけた時に解放された。混乱した敦君が我に返った時にはもう幸恵さんは帰らぬ人となってしまっていた・・・

「あなたは自分の罪の重さを自覚しているのですか?」
敦君の言葉が途切れると、裁判長は問いかけた。
「わかっているつもりです」
敦君は弱い語調で返した。
「当然殺害された幸恵さん、来未ちゃんの無念さ、ご遺族の心情も?」
「わかっているつもりです」
先ほどよりは声に力を込めた。それだけ応えると、敦君は口を真一文字に結んだ。今の敦君にはそう応えるのが精一杯だった。

一連のやりとりが終わると裁判官らは判決の審理に入るため、一時法廷から姿を消した。私たちはその結果を黙って待ち続けた。果たしてこれで良かったのだろうか?ふと今更ながらの思いが心の中に飛来した。良かったって何が?何がどうなるのがお前にとって一番良かったのだ?無意味とも思われる自問自答が続いた。そう、それは無意味な、栓の無い胸中なのだ。何はともあれこれで全て終了した。少なくとも今回の私の仕事は。そう思えば良い。

当然被告席に戻った敦君にとってはこれがゴールではない。むしろスタートですらあるのかも知れない。席に着いた彼の表情は、先ほどの裁判長からの言葉を反芻して噛み締めるかのように、やや心ここにあらずといった状態だった。しかし覚悟はできているだろう。

一方原告の若葉さんはどのように受け止めているだろう?被告から反省の弁を受けることのできた若葉さんは、私よりも救われているのだろうか?私にはわからない。少なくとも被告からの反省の弁が現在の若葉さんの負担を軽くしたようには見えなかった。

あの時、私が傍聴席に座っていたあの裁判の時、私は何をどう考えていたであろう?被告に謝って欲しいと考えていたであろうか?洋子や梓の事を考えていたであろうか?ただひたすら被告への復讐を願っていたであろうか?残念ながら正確には思い出せなかったし、心のどこかで思い出す事自体を私自身拒否しているかのようであった。

30分近くが経過し、私に余計な事を考えさせる充分な時間を与えてくれたが、3人の裁判官は法廷内に戻って来ると、それぞれの席に再び着いた。いよいよ判決の時だ。各々表情を消して、どういった言葉が次に発せられるか読み取る余地はそこには見あたらなかった。

「判決を言い渡す」
裁判長の言葉に法廷内の空気が止まった。