KA.Blog

株式市場で気になる銘柄をピックアップして分析、検証していきます。主に中期~長期の投資で成果を上げ、値動きを追っていく予定です。株の他にも日常の話題やコーナーで綴っていき、むさくるしくない(?)ブログにしていきたいと思っています。

行間の小宇宙

先日日テレの番組「爆笑問題のススメ」を見ていたらゲスト出演されていたのは阿刀田高さんでした。その中で「世界で一番短いミステリー」という話題で出された阿刀田さんの作品。

「ねぇ、赤い手袋が落ちているよ」
「そうねぇ、中身もあるわねぇ」

たったこれだけです。これだけの事で色々なことが想像でき、そしていい知れない恐怖が頭の中に浮かび上がります。余計なお世話ですがちょっと検証してみましょう。

まずは登場人物。二人の関係はわかりませんが、口調からは極親しい間柄だとわかります。友達、恋人、あるいは親子かも知れません。そして口調からは極普通の日常的な一コマであることが伺えます。ただし中身は異常です。

結局赤い手袋というのは元々は何の色だったのかわかりません。最初は白い手袋だったのかも知れません。それが赤く染まっているということです。何故か。それは手袋に詰まった中身から流れ出た赤い液体によって。すなわち手袋が本来の使用目的を果たすために使われているのであれば中身とは切り落とされた手首を意味します。

仲の良い二人が歩いています。日常の何でもない一コマです。そこに手袋が落ちています。日常の何でもない一コマです。しかしもう一人が放った言葉で一気に猟奇的な話に切り替わります。

私は別にミステリー作家を目指しているわけではないのですが、これは目から鱗の究極的な表現です。つまりはいかに少ない言葉数で読者の想像力をかき立てるか。結局「恐怖」とは次に起こるかも知れない破局を予想してしまうために起きるものです。想像とは人間にしかできない行為だと言われますが、そういう意味では他の動物に恐怖とは感じないことなのかも知れません。

そしてその想像力を増幅させるために解説は不要です。むしろ言葉多く解説すると恐怖はその分減衰します。日本人は行間を読む技術に長けているとよく言われます。日本には昔から俳句や川柳、短歌といった数文字程度で情景を表現する文化が土壌としてあります。これが実は日本人のミステリー感覚の礎なのかも知れないですね。日本映画でホラーが良い出来となるのはこの辺に理由があるのかも知れません。

さて、本日は日曜なので小説の日です。前回までの分は先週お休みをいただきましたので、先々週より各日曜のブログを参照してください。


                       台風一過

第二十四節 暗殺者

どうやって部屋に戻ってきたのか覚えていない。今日は強い衝撃を受け過ぎた。ははは、悪い冗談だ。全く出来の悪い冗談だ。部屋に入ってから電気もつけずに壁にもたれかかりながら虚ろに笑う自分の乾いた声に気づいた。これが笑わずにいられるか?神経がおかしくなって喜怒哀楽のコントロールができなくなったのかも知れない。

冷蔵庫からビールを取り出し一気に飲み干す。缶を無造作に放り投げるとまた一缶取り出し飲み干す・・・同じことを繰り返しながら暗闇の中で徐々に力が抜けていった。キッチンの真ん中に座り込む。冷蔵庫の扉を閉める気力もない。やがて主人の怠慢に抗議するかのようにモーターが動き出す。

いつもであれば一缶で十分に酔える。しかし今日はどうだ、逆に頭が冴えてきている。外はまた風が強くなってきたようだ。風の吹く音が不気味に聞こえ、最早現実世界からは隔絶されたような気になってくる。

現実世界?どっちが現実世界?風が吹いている外が現実なのか、この部屋の中が現実なのか?ばかばかしい、どちらも現実世界だ。夢なんかじゃない。夢。夢であれば・・・。夢にしては長過ぎる。だいたいどこからが夢でどこからが現実なのか・・・

藍との思い出が否応無しに頭に蘇る。初めて会社で出会った時の事。思い切って食事に誘った時の事。二人で旅行した時の事や語りあった夜の事。触れた肌の感触や温もり・・・忘れようとしても到底忘れられるものではない。こんなことになるなんてほんの数ヶ月前には想像もしなかった。いや、ウィルスが発生した後でさえ、心のどこかで私と藍が感染することなんてないと無条件に信じ込んでしまっていた。根拠などなく信じ込めたのは強い想いがあったからなのかも知れない。

どれくらいの時間座り込んで考えていたのかはわからない。体がだるく、何もする気が起きない。ただ強く吹き荒れる風の音だけが部屋の中に響いていた。雨も強く降ってきたようだ。そういえば台風10号が今日また本土上陸とかニュースでやっていたっけ。ここまでくると最早台風の接近なんてどうでもよくなる。全く今年は台風の当たり年だ。去年までならそういってぼやいて終わりだったのだが。

子供の時から台風とはそんな存在だった。勿論自然の脅威を甘くみてはいけない。わかってはいるが、現実的には生命の危機を感じさせられる程のものではなかったし、子供の頃はむしろ台風が来ると聞くと布団の中で少しワクワクした位だ。人はイベントを好む。大きなエネルギーのぶつかり合いを好む。そしてそれはスリルを感じることができるもの程興奮作用がある。しかしそれには「自分の生命に危険を感じない程度で」という条件がつく。格闘技やサーカス等は見てハラハラするが、客に危険や痛みは一切伴わない。その位が一番丁度良いのだ。

勿論台風で毎年死者は何人か出ている。しかしほとんどの人にとって台風はじっとしていればいずれ過ぎ去り、過ぎ去った後には嘘のような青空が広がるものだという認識だ。恐れる程のものではない。

しかし今回はどうだ?過ぎ去った後に残ったのは青空ではなく殺伐した社会と死体の山だ。今回の騒動で日本での死者は20万人を超え、東京だけでも15万人近くにのぼるとされている。

昔ヨーロッパで黒死病、すなわちペストが流行し、その結果ヨーロッパの人口は1/3にまで落ち込んだという。今回の出来事はそれに比べるとまだまだ大したことはないと言えるのかも知れないが、その数は今後増えることはあっても減ることはなく、あくまでも推定される数字であるから実態はそれ以上かも知れない。

人知れず死んでしまった人、遠因で死んでしまった人が一体何人にのぼるのか?現実に私の周りだけでも何人の人が死んだ?台風自体が悲劇をもたらしたわけでなく、便乗したウィルスにやられたのであるから、多少は台風を弁護することもできるのだが、だからといって台風に感謝されるでもない。

時間が経って多少は落ち着いてきたが、そうすると今度は考えたくはないが考えざるを得ない事が頭に浮かぶ。藍は必ずここにやってくる。ここにやってきて私を殺そうとするだろう。その時私はどうすれば良いのか?

藍を愛しているのは間違いない。いや、間違いなかった。しかし愛する人に殺されてもかわまないと思う程私はロマンチストではない。生あるものとしては生きようと行動するのが当然だ。それは他人を殺してでも。そう、殺してでも。

藍が来たら殺すしかない。それしか私の生きる望みはない。私の手で殺してやろう。それがせめてもの藍へのはなむけだ。そう決意すると冷蔵庫の明かりに薄く照らされた台所から包丁を取り出し、迎え撃つ準備を整えた。暗闇の中、取り出した包丁が不気味にきらめいたような気がした。殺意の眼光が反射したのかも知れない。

暗闇の中、もう一人の主人公の登場を待ち構えていた。決して心躍ることはない。鼓動の高鳴りは期待によるものではなく、極度の緊張によるものだ。

「愛する」ことの反対は何かという問いに「憎しみ」と答えるのは間違いである。「愛する」ことの反対は「無関心」なのだから。「無関心」は相手の存在を自分にとって取るに足らない者と決めつけていることになるのだから。ならばせめて愛する者の手で藍を殺してやるのが私の使命であり責務というものだ。

それは決して自己正当化をしようというものではない。この後の人生、私は「犯罪者」「殺人者」の汚名は甘受するつもりだった。

ふいに扉が叩かれる音がした。それは風の悪戯ではない。強く降りしきる雨の音にかき消されることのない力強い音だった。以前までの藍であればそんなノックをするはずがない。しかしそれでも私は覗き窓から相手の顔を確認するまでもなく、藍だとわかっていた。

私はそれに無言で応える。玄関の施錠を解除する指に力が入る。長時間握りしめた包丁の柄は私の体温以上の熱さを感じさせた。(つづく)